外科医をあきらめ、スペイン内戦へ

1936年5月、エチオピアの首都アジスアベバがイタリア軍に占領され、第二次エチオピア戦争は終結しました。32歳になっていたジュノー博士もジュネーブへ戻ることになります。しかし、それも束の間、わずか2ヶ月後、スペインに内乱が勃発します。

連絡を絶たれ、現地の情報をつかむことができなくなったICRC本部は、早急に派遣員を送る必要に迫られます。「なんとかしなければならない。世界のどこかで多くの人々やこどもたちが苦しんでいる時、赤十字は無関心ではいられない。われわれが何を成し得るかを見きわめるため、現地に行ってくれる人を捜さなければならない」。ミュルーズに戻り外科医の仕事を再開しようと考えていたジュノー博士に白羽の矢が立ちます。長くて3週間という約束が3年の長きに渉るとは誰が予想できたでしょう。
当時ジュネーブ条約は、国家間の紛争にのみ適用されるものであって、スペインで起きたような内戦には適用されませんでした。しかし、博士は人道的立場から捕虜の処遇を改善させることや、捕虜の交換に奔走し続けます。その結果、バルセロナ陥落直前の激戦下、明日の命の保証のなかった数千人の捕虜の命を救うことができたのです。

スペインの内戦をきっかけに博士は、傷ついた人々の介護にとどまらず赤十字を介した捕虜と家族の文通システム(赤十字通信)を作り上げます。名前と住所と25文字以内の伝言だけの小さなカードは、誰かが確実に生きている証拠となったのです。名前を読み、署名を確認した人々は、互いの生存を知り嬉し涙にくれました。ジュノー博士は家族にささやかな希望をもたらすことに成功します。家族の架け橋となったこの希望のカードは500万通以上にのぼりました。

後にこのカードと肉親を捜し求める家族たちの無数の掲示板をヒントにジュネーブが数万人を超える行方不明者と残された人々とのメ大型掲示板モの役目を担う交信システムとなって実を結びます。「ひとりひとりの捕虜にハガキを書かせ、ジュネーブの中央捕虜局に送付してください。われわれ赤十字がそのハガキを家族の元に届けます」。
不安に苦しんでいる捕虜たち。彼らと連絡さえとれなかった家族たちが悲嘆から解放されたのです。

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