愛、それだけがICRCの武器
1939年、第二次世界大戦が勃発します。ジュノー博士も医療班としてスイス軍に徴兵されます。しかし、直後にICRCの要請により派遣員の任に就くことになりました。
今度の任務は1カ国にとどまりません。フランス、イギリス、ベルギー、ドイツ、スウェーデンなどヨーロッパ諸国のみならずトルコやギリシャなどバルカンの国境も越え、飛び回らなくてはなりませんでした。
戦時下で輸送機関は途絶え、思うように動くことができません。それでも博士は諦めることをしませんでした。幾度も国境を越え、ヨーロッパ各地の捕虜収容所における処遇改善に奔走します。
「あなた方の捕虜の扱いが酷ければ、相手側に捕らえられているあなた方の同胞はそれ以上に酷い扱いを受けることになるはずです」。博士は粘り強く説得を続けました。
「フランス軍が捕虜にしていたわれわれの落下傘部隊の同胞を銃殺した」。あるとき、ドイツ政府内でこうした噂が流れました。「銃殺されたドイツ人捕虜ひとりに対し10人のフランス人捕虜を処刑する」。噂を信じたドイツ政府は報復を決定します。この決定が実行されれば、報復が報復を呼ぶ負の連鎖に繋がることは目に見えています。
決定を覆すのに博士に与えられた時間は僅か12日間。しかし、この時点ではドイツ軍の侵攻を許したフランス政府自体の所在地すら明らかでなかったのです。ベルリンからスイス経由でフランスに入った博士は、与えられた期限ぎりぎりの11日後にやっとボルドーにあったフランス政府を訪れることに成功します。
フランス政府からドイツ人捕虜訪問の許可を得た博士は、直ちに捕虜たちを訪問、落下傘部隊の銃殺の噂が事実無根であることを確認すると、その結果を間髪入れずドイツ政府に通知し報復を阻止、連鎖を断ち切りました。「ひとを信じること、ひとを愛すること。それだけが、ひとを救える唯一の武器です」。後日、この時の超人的な行動力について聞かれた博士は即座にこう答えました。第二次世界大戦下で博士の活躍によってどれほどの命が救われたことでしょう。
また、博士はドイツとイギリスの海軍が相互干渉し合っていたジェノバ?リスボン間の海域を赤十字の船舶が自由に航行できるよう折衝を重ねます。その結果、世界各国から寄せられた多くの食糧や小包、医薬品等の支援物資を捕虜のもとへ運ぶことができるようになったのです。
さらに、博士はスウェーデンの赤十字と協力して飢えに苦しむギリシャの市民を救出するために、大規模な支援活動を行いました。「良心が命じるままの慈愛のこころ」。博士のこの信念こそが救援物資を運ぶための船舶の航行や輸送路の確保、そしてギリシャの病気のこどもたちをカイロの病院に入院できるシステム構築までも可能にしたといえるでしょう。
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