スイス生まれの医師。ジュネーブ大学で外科学を専攻。1935年、第2次エチオピア戦争にICRC(赤十字国際委員会)の派遣員として活動に従事し、国、人種、宗教を超え数々の人道的支援を行いました。また、赤十字国際委員会副委員長も務めました。

マルセル・ジュノー博士は、ICRCの派遣員として第2次エチオピア戦争に従事、以後スペイン内戦、第二次世界大戦と息つく暇もなく命がけの任務に奔走しました。その間、捕虜や被災者の安否確認、捕虜とその家族との「赤十字通信」交換の仲介、捕虜や被災者への救護物資の手配、医療支援等、さまざまな人道支援活動に心血をそそぎます。
こうした活動のすべてが、今では想像もできないほど過酷な苦難を乗り越えねばできないものでした。ジュノー博士はゆるぎない愛の精神でその難題に立ち向かいます。

1945(昭和20)年8月9日、広島に続き長崎にも原爆が落とされたその日、ジュノー博士はICRCの駐日首席代表として来日します。国際人道法に基づいて捕虜の処遇を改善し、やがて訪れる終戦時にその帰還を確保することが本来の目的でした。
終戦を迎え、博士は当初の目的である捕虜への支援活動の傍ら、8月29日に広島入りした部下から想像を絶する現地の惨状を聞くや、直ちにGHQ(占領軍司令部)に駆け込み、救援を強く要請します。交渉は難航しましたが、これまでに培った不屈の精神と粘り強い説得力でGHQから薬品、医療資機材など15トンの提供を受け、空輸することに成功しました
9月8日、広島に入った博士は、被害の実情を調べるとともに、自らも被爆者の治療にあたりました。彼の尽力によって救われた被災者は数万人ともいわれています。
その後、日本を離れた博士は、これまで見てきた毒ガスや核兵器の非人道性を世界に強くアピールする活動を行いましたが、57歳という若さでその博愛の生涯を終えました。

1979年、ジュノー博士の功績を讃え、深い感謝の意を表すために広島平和記念公園に博士の顕彰碑が建てられました。碑の裏には博士の著作『第三の兵士』からの引用文が刻まれています。

「無数の叫びが あなたたちの助けを求めている」

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